2021年8月31日(火)、天神のまちから“場”が消えた。2005年ごろにイムズの中の人と出会い、それがキッカケで天神のまちづくりをする「We Love 天神協議会」に参画することになった。それ以外にも、福岡打ち水大作戦を天神地区でいち早く取り入れコラボしたり、2010年に開校した福岡テンジン大学のこともいち早く支援を表明し、教室として場を提供いただいたのがイムズだった。
個人的にも、社会的取り組みでも、天神で一番お世話になったビルがイムズだった。
そんなイムズの閉館という事実に、自分だけでなく多くの人が嘆き悲しみ、名残惜しみ、8月のお盆明け以降は連日多くの人が「イムズへお別れ」を言いに訪れていた。いたるところで「泣きそう」という声も聞いた。「こんなに愛されるビルは、これまでもこれからも天神にはないんじゃないか」という人も多い。
自分なりに人生を変えるキッカケを多くいただいたこのイムズへの感謝を込めて、この閉館前後に起きていた現象から「イムズはいったい何だったのか」「イムズが言うイズムはいったい何なのか」を書いてみようと思う。
皆に愛された幸福度の高いビル
近年、科学的に「幸福度が高い人には何があるか、どんな習慣があるか、行動パターンがあるか」などがわかってきている。経済的に豊かだとか、そもそも健康であるとか、わかりやすそうなものの他に「多様な人間関係やコミュニティへの所属があるか」や「地域貢献的な活動に参加しているか」などがある。
イムズはビルであり不動産だ。しかしながら1人の人格を持つ人という、ギンギラ太陽’s的な視点で見てみると、イムズというビルほど「多様な人と繋がりをもったビル」は福岡、いや九州で見てもトップクラスだったのではないだろうか。
7月17日(土)に、主宰する福岡テンジン大学でギンギラ太陽’sの大塚ムネトさんを先生に、イムズバックヤードツアー的な授業もした。そのときに参加者に「イムズの想い出を書いてみんなで年表をつくる」というワークショップをした。
想い想いに書かれるイムズに関するSNSの投稿も、知人・友人のイムズへのコメントも、年表に書かれる出来事も、その多くが「お買い物」ではない想い出だった。そう、イムズは「商業施設」と思われているが、モノよりコト、文化的なことを体験できるビルだったことを証明している。
イムズはまさに福岡や九州の文化的なヒト・モノ・コトが集まるビルだったし、イムズ自身が「多様な人と繋がりを持てる」ビルだったのだと思う。
なぜ、そのようなビルが32年も前の物販全盛期に突入しようとしていたバブル期に誕生できたのだろう?
イムズを創った人たちに話を聞いてみた
イムズから「イムズを創った方々から話を聞いて、それを残したい」と相談を受けていた。ギンギラ太陽’sの大塚ムネトさんとともに、7月17日(土)午後にイムズ授業をする前に、この方々にインタビューをする機会をいただいた。
そのときの内容が記事化されたのがこちら
こちらはインタビューを記録用グラレコとともに動画化したもの.。
これらの話を伺って、イムズがイムズたらしめた理由をこう考えた。
- 福岡市が(イムズができる)市所有の土地の再開発コンペに向けて、「どんな土地にしたら良いか」を有識者たち交えてガチで議論し数年かけてまとめた。
- 三菱地所のプレゼンチームは若手中心(30歳前後)で構成し、三菱地所初の商業施設開発として自由なアイデアが盛り込まれた。
- 三菱地所案が採用され、建設に向けてたチームの「チームビルディング」が非常に上手くいった。
つまり、そもそもイムズという名前になる前の、コンペの段階で福岡市が取りまとめたマスタープランの解像度が、非常に高い精度で作られていたこと、そしてそれを三菱地所の若手たちがのびのびと表現していき、建築設計デザインに反映され、あの姿・形の黄金に輝くタイル張のイムズが実現したと言えそうだ。
意思を持ったビル、擬人化される
※画像出典:イムズHP(制作はKOO-KI)
イムズ閉館に向けて、イムズの懸垂幕や館内ポスター、TVCMなどで目撃した人多数だと思うが、天神のまちの主に商業ビルを擬人化したギンギラ太陽’sがメインビジュアルを務めた。この話を今年の春ごろに聞き、ギンギラの大塚さんからは「最後にテンジン大学でもイムズバックヤードツアーやりましょう」と声をかけていただいた。
そもそも、この福岡の都心部の規模の、実際のまちの、実際にあるビルを「擬人化」して、実際にあった歴史的な事実をもとに「劇」にしているのは、ギンギラ太陽’sを置いて他にない。(八百万の神々がいるという思想にも通じるいかにも日本らしいなーとも思う)
このギンギラ太陽’sが誕生したとき、第1号が「イムズ」だった。そして主宰の大塚さんが「これから劇団をどうしていこう」と悩んでいたときに、イムズを見て、イムズの中を歩き、イムズの様々な取り組みを肌で感じ、「イムズマン」という着想に繋がっていったと伺った。
上記の「イムズを創った方々へインタビュー」したとき、「イムズは人格を持っている、意思を持っているように感じる」という話になったが、その理由がまさに「高解像度でコンセプトメイキングされ、設計・デザインされ、福岡の天神から九州の天神へ、という強い存在意義を持っていたからじゃないか」というやりとりがあった。
ギンギラ大塚さんは、このときの話で「イムズを創った方々の意思が、ビルの建築や内装、その後の館内ポスター等のビジュアルに反映され、私は自然とそれを受け取ってたんですね」と話していたのが印象に残る。
イムズが目指したのは“まちづくり”
イムズの名前はIMS、Inter Media Station の略称だ。インターメディアステーションとは、情報受発信基地。イムズはその名前に、自らの役割や存在意義を込めた名前としてこの世に産まれ落ちた。
都心にある物販や飲食がメインのビルは「商業施設」として認知されるし、イムズもまたその商業施設の1つだった。
しかし、イムズ自身は自らのことを「メディア」だと定義していた。さらにメディアの前に「インター」と付く。その意味は?
インターメディアとは、事象と事象が融合したり、メディアとメディアがクロスして生まれる「新たな情報発信を行うメディア」のこと。これまで存在しなかった“何か”を天神から発信する「情報発信基地」。
フクリパ『名前に刻まれたコンセプトを貫いてきたイムズ 天神ビッグバンで閉館カウントダウン!』より
つまり、イムズは「福岡の天神から、九州の天神へ」という編集方針をもってして、その場に集まるあらゆるヒト・モノ・コトを融合させ繋ぎ、編集して発信していく。だからイムズの存在価値は、イムズを使う人たちによっても定義されていく。イムズが育つ=イムズを育てている福岡・九州の人たちが育っていく、共創関係にある。
天神というまちは、明らかにイムズの存在と周りの商業ビル、そしてイムズや天神を使う人たちによってアップデートされた。この感触を持って、イムズ立ち上げを経験した方々は東京で「丸ビルの建替え」や丸の内地区のまちづくりを手掛けていくことになる。
そして、2004年。天神地区は「天神ピクニック」という社会実験をキッカケに、エリア一体へのまちづくりへと歩んでいくこととなり、イムズを経由して「丸の内や大手町・有楽町のエリアマネジメント」が輸入されていく、というより逆輸入され、We Love 天神協議会へと発展していった。
イムズというビルのコンセプトメイキングのときには、ここまでの影響力は計算も計画も予測すらも立てられるはずもないのだけど、想像以上にイムズがチャレンジしてきたことは時間を超えて「まち全体」に影響をもたらしていったことを、閉館に向けた様々な話を伺って思い知らされた。
“意思を持ったビル”。これくらいの規模のビルでも、意思を持つとこんなことが起きる、起こせるのだな~という32年間の軌跡だったと思う。本当に、おつかさまでした。
個人的に、これだけ愛され、意味をもたらし、多くの人と関係性を築き、まちづくりをしてきたイムズの「次」への期待値は大きく膨らんでしまったと思う。再開発をプロデュースする方々は、かなりのプレッシャーがかかるのではないだろうかと。(イムズを解体してまで「え、これ?」みたいになったら・・・w)
最後に、イムズが愛される最大の理由を、イムズで開館当初より働いている方々から聞いた。
「毎年4月12日のイムズの誕生日は、ケーキを買ってきて事務所でみんなでハッピーバースデーを歌ってるんですよね。」と。
イムズがイムズらしさを保ち続け、それがビルやそこを営む人たちを通じて訪れた人に伝染し続けてきた理由をこのエピソードを聞いて感じた次第です。