8月15日、終戦の日。あれから69年だそうですね。今年は「集団的自衛権」や「永遠の0」の影響か、地元の新聞社(とはいえ西日本新聞)も、特攻隊の特集や、終戦の特集などの記事が今まで以上に大きく掲載されていた気がします。そんな今夜は、テレビの金曜ロードショーで「硫黄島からの手紙」を見ました。
硫黄島からの手紙は、第二次世界大戦の「硫黄島の戦い」を日本とアメリカと両方の視点から2本の映画を作ったもの。硫黄島の戦いとは・・・
1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本軍の激しい抵抗を経てアメリカ軍は同島をほぼ制圧、3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。
日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死或いは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等[3]の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、また、硫黄島上陸後わずか3日間にて対ドイツ戦(西部戦線)における「史上最大の上陸作戦」ことオーバーロード作戦における戦死傷者数を上回るなど、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地のひとつとして知られる。Wikipedia:硫黄島の戦いより
CM中、硫黄島の戦いの生き残りって?と思い、いろいろ検索すると出てきますね。1000名ほどが生き残ったそうです。本土からの応援・支援がなく、太平洋のど真ん中で逃げ場なく、玉砕する他ない境地に立たされた日本兵の皆さんの想いたるや、想像してもその心境は測りかねます。
そんな玉砕覚悟の戦いがここ福岡でも、時代と敵が違いますがありました。
恐らく大河ドラマではスルーされる
それは、今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の時代で、まさにこの8月中の放送くらいのタイミングで起きたここ福岡での大きな出来事、いや玉砕の戦いです。四国を征伐した秀吉軍は、大阪城を築城しつつも、次に九州征伐に向かいます。
その頃、九州では・・・。鹿児島の薩摩で起こった島津家が、当主の義久を筆頭に、義弘・歳久・家久の四兄弟がめっぽう強く、ほんの少し前までは、佐賀の龍造寺・大分の大友・鹿児島の島津の3つの有力な大名たちが均衡していたのですが、佐賀の龍造寺が島原で島津軍と激突!島津四兄弟の末っ子・家久率いる約6000名の兵に、約4万の大軍で挑むも、当主の龍造寺隆信が打ち取られるという大敗をしてしまいます。(それがもとで、軍師的ポジションだった鍋島直茂の存在が大きくなり、江戸時代には鍋島家として明治まで家名を保ちます)
勢いに乗る島津家は、いっきに九州制覇を目論み、どんどん北上。久留米の東、耳納連山にある高取城を落とし、筑後川を超え、いよいよ福岡(当時は筑前)に迫ります。そこに立ちふさがるのが、太宰府一体を治めていた高橋紹運(たかはしじょううん)です。
この高橋紹運、めっぽう戦に強く、家臣にも慕われ、地元の住民からも慕われていたようです。彼には2人の息子がいました。長男は、立花家に養子として出し、当時は福岡市東区と糟屋郡にまたがる立花山の立花山城にいました。次男は、太宰府の宝満山にある宝満城に。そしてその2人の息子に盾となるべく、太宰府天満宮からやや西、大宰府政庁跡があるところからすぐ北にある小さな山、岩屋山の岩屋城に立てこもります。
実は黒田官兵衛も関係がある
実はこの島津軍がまさしく太宰府に迫ろうとしているとき、秀吉から直に九州征伐軍の軍監として黒田官兵衛は約4000人の軍勢で京都を出発しようとしていました。途中、毛利家や四国征伐で秀吉の家臣になった長宗我部(ちょうそかべ)家も合流する予定で。
一方、秀吉軍が来るまでに早く九州を制覇して地固めしたい島津軍。焦りながらも、標高が高く守りが堅そうな、太宰府天満宮が麓にある宝満山の宝満城は、兵が下りてくるのもたいへんなので無視できるとしても、標高も低く、大野城・春日・福岡市の方へ抜けようにも岩屋城にいる高橋紹運は無視できない場所におり、これを攻めることに。まさしく、秀吉軍の到着まで、息子2人の盾となるべく、父ちゃんは玉砕覚悟の戦をするのです。
早く来い!官兵衛!
島津軍約4万の兵の本陣が、今もある太宰府の観世音寺に置かれます。そして1586年7月14日、全軍攻撃の命令とともに、高橋紹運とその家臣の合計763人が立て籠もる岩屋城へ駆け上ります。なぜ763人という数字がわかっているかって?実は1人1人の名前がわかっているのです。本当はもう1名、玉砕を共にしたかった武士が、戦が始まる前に城を出ていて、その人が後に太宰府天満宮の近くの寺で、763人を弔っているのです。
高橋紹運はやはり相当、慕われていたのでしょう。家臣762名が「この人のために死んでもいい」と立て籠もっているのです。おそらく、もう少し家臣はいたと思いますが、「死んでもいい」と思った人たちだけが城に残り、長男のいた立花山城からも「お供します!」と20名近くが玉砕の戦いに参加したと言われています。
焦る島津軍。実は、何度も「降伏勧告」をしています。合計3回。いずれも丁重に断られています。さらにこの「降伏勧告」は味方からもしています。立花山城にいる長男の立花宗茂と、そう!今年の大河ドラマの主人公、黒田官兵衛も。高橋紹運はそれも断って、盾となったのです。
早く来い官兵衛!7月25日、ようやく官兵衛は京都を出発。しかし・・・7月27日、全軍総攻撃に入っていた島津軍により、岩屋城に立て籠もる763名は全員玉砕して落城します。官兵衛、間に合わず・・・。
しかし、この戦いで2週間ほども時間稼ぎをしたことと、多くの島津軍に負傷者を出し、道連れの死者も出した高橋紹運の抵抗により、島津軍が再び北上を始めて、そして高橋紹運の長男・立花宗茂が籠もる立花山城を攻めをしようとしたそのとき、黒田官兵衛より先に出発していた毛利家の吉川・小早川軍が九州入りしたため、島津軍は城攻めを断念して、早々に鹿児島に帰ることになります。まさに、父ちゃんは息子の盾となり玉砕したというのが、この岩屋城の戦いなのです。冒頭の写真は、その岩屋山の景色です(太宰府市役所HPより)。
ちなみに、この岩屋城の戦い、まだまだ細か~いネタがいくつかあるのですが、相当長くなるのでこのへんで(笑)さらに~11月27日(土)は、テンジン大学の授業として、この城攻めの再現的な山登りをする授業をしたいと企画中です。歴史×登山!
おまけ「吉塚の地名の由来」
意外にもネット上に全然出てないのが、JR博多駅の隣の駅「吉塚駅」があるところの地名・吉塚。実はこの吉塚という地名の由来がこのときの戦がキッカケになっています。
岩屋城を落とした島津軍は、すぐ近くにあるが標高が高い堅固な宝満城にいる、高橋紹運の次男に、降伏勧告します。次男は意外にもあっさりと降伏するんですが(笑)そのときに、島津軍の味方になっていた、星野吉兼・吉実という兄弟の軍勢が先に立花山城へ向かうため、今の糟屋郡の若杉山の近くにある高鳥居城に行きます。そして、立花宗茂にも降伏勧告をします。
父ちゃんを殺されて、激怒中の長男・宗茂(と言っても他家に養子にいってるんですけどね)。で、すでに書いた通り、立花山城が攻められる前に、島津軍は福岡の地から去っていくのですが、島津軍が無事に帰れるように、高鳥居城に立て籠もっていた(今度は攻める側じゃなく、守る側になった)星野兄弟。父ちゃんが殺されて激怒中の宗茂は、星野兄弟を攻めます。律儀にも星野兄弟はここでも玉砕覚悟の戦いをするのです。
父ちゃんの高橋紹運以上にめっぽう戦に強かった立花宗茂は、星野兄弟をやっつけてしまいます。高鳥居城から(若杉山の近く)からちょいと立花山に近いところまで来たところは、当時「堅粕村」と呼ばれてたようですが、その地で星野兄弟の首を葬ります。その後、村人たちが星野兄弟の首塚を以後、弔うようになり、兄弟に共通する「吉」の字をとり、その地を「吉塚」というようになったそうです。今でも吉塚にはその塚というか、お地蔵さんが地域の人たちに管理されていますよ。
はい、この歴史、ネットで探しても全然転がっていません。太宰府市の図書館の古い本や、古いマニアックな歴史小説には出てきすが(笑)