2015年1月、テンジン大学で僕が企画した授業のテーマは「元寇」でした。この国が海外から侵略されたのは歴史上2回。そのうちの1回はご存じ、太平洋戦争で圧倒的物量の差で本土を空爆されまくりました。そしてもう1回が、誰もが社会の教科書で見たことがあるあの絵の「元寇」です。
元寇のメイン舞台は実は福岡だった!
日本中の小学校・中学校の社会の教科書に登場する「元寇」の絵。正式には「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」という絵巻物の一部の絵です。元寇があった鎌倉時代に書かれたものですが、実は作者不明で、その目的も不明のようです。でも、この絵巻物の主人公として描かれているのが、肥後(現在の熊本県)の御家人(幕府に仕える武士)の竹崎季長(たけざきすえなが)という若者です。
教科書に採用されるくらいなのに、作者不明なのも不思議ですが、もっと不思議なのが「この絵の場所が、福岡市中央区の鳥飼周辺だったことを、ほとんどの人が知らないこと」です。
絵巻物には絵の解説として文章が書かれていますが、この有名な絵のシーンの解説を要約すると、こんな感じになります。
モンゴル軍が祖原から来て鳥飼潟の塩屋の松の下で合戦となった
祖原とは、早良区西新の近くにある祖原山のこと。鳥飼潟とは、そのままですね、中央区と城南区にまたがる鳥飼のことです。そしてこの文章に登場する「塩屋」という地名が、現代ではこんなカタチで残っています。
鳥飼あたりの樋井川にかかっている橋の名前が「塩屋橋」です。そうです、この誰もが教科書で見たことがある絵の場所って、福岡市内のこれまたみんななんとなく「あのへんかぁ~」ってわかる場所なんです。
福岡市は全くPRしていないのがちょっと残念
この絵の場所のことを話すと、昔から福岡市に住む人は、けっこう「えー!」っと驚いてくれました。テンジン大学スタッフの中に、中央区草ヶ江校区に住んでた人に言うと「ものすごい発見だ!家族に言わなきゃ!」と言ってました。
さらに、この絵の場所の近く、草ヶ江小学校で先生をしている方が、一般参加されていて「全く知らなかったです」とのこと。きっと近くに住む小学生がこの事実を教わるだけでも、地元への愛着に何かしらの影響は与えるはずです。
ところが、福岡市はこの絵のことについて全くと言っていいほどPRしていません。塩屋橋にも何も記載がなければ、市や中央区のHPにも一切記載ありませんし、周辺に看板もなにもありません。
絵に描かれた松の木も現代に伝わる!?
この有名な絵の、日本の騎馬武者の後ろに描かれている「松の木」が、今も残っていたら!と思いますよね。でも松の木の寿命はおよそ300年。元寇があったのは1274年と1281年なので、730年ほど経っていて松の木は残っていません。
しかし!「この絵の松の木を使った社額を奉納した神社がある」という説に行きつきました!その神社は、塩屋橋の近く、中央区にある埴安神社(はにやすじんじゃ)です。実際に現地に行ってみました!
こじんまりした神社で、普段は誰もいません。社額と言っても・・・。石でできた比較的新しそうな鳥居のため、違うようです。奥にある社をのぞいてみましょう。誰もいなくて鍵がしまっているため、ガラス越しに中をのぞきます・・・
おやっ!?
社額らしきものを発見!しかも、ウネウネ曲がってるカタチ。日本全国の神社の社額はそのほとんどが長方形の四角のカタチなのに、こんな奇抜なカタチは珍しい!きっと理由があるに違いないし、ウネウネ曲がる木は松の木じゃないか!?と期待できます。
おぉー!!ほぼそっくりじゃないですか!!
これは伝説じゃないかもしれない、本物ですよ!きっと!!
この社額を化学分析して800年前とかになったら、ほぼ確定でいいんじゃないでしょうか?そんな日が来ないかなぁ。
とは言え、日本が本土まで侵略されたのは歴史上2回ですが、「上陸された」というのはこの元寇だけなんですよね。そんな日本人にとって、とても重要な戦争の、これまた一番有名なシーンの場所が福岡のど真ん中だったなんて、さらに松の木が現代にも繋がってる可能性があるなんて!!
という授業内容でした。このこと、もっともっと広めていかないといけないなぁと感じた企画ですね。