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「社会に開かれた教育課程」を学校でどう実現する?

2018年11月16日(金)、福岡の郊外にある“とある高校”で、全教員が丸1日かけて学ぶ研修「教師の日」が開催されました。全教員なのでもちろん生徒たちは休校、教員もほぼ総出で約140名ほどいたそうです。その高校の先生と数年前から繋がりがあり、また福岡市の教育事業「中高生・夢チャレンジ大学」でも毎年数名の高校生を送り出してくれている先生でもあるので、「この日空けておいて!」と言われたので登壇してきました。

 

一緒に登壇したのは、これまたいつ出会ったかも忘れたくらい前になる、今は福津市の副市長になった松田さん。そして、ちょこちょことお世話になってる福岡中小企業経営者協会事務局長の古賀さん。最後に、今回初めてご一緒した、福岡工業大学で全学生が受講できるようコミュニケーションの教養科目を設けたという宮本先生。

 

「教師の日」のテーマが、新学習指導要領のメインキーワードにもなっている「社会に開かれた教育課程」のため、学校×産官学民ということで、松田さんが官、古賀さんが産、宮本さんが学、私岩永が民ということで登壇しました。

 

4名の共通点は、それぞれ本業がある中で「越境して教育に携わっていること」。

 

社会に開かれた教育課程を高等学校でどう実現するか?

文科省が策定する「学校教育のあり方」みたいなものでもある学習指導要領。2017年にこれからの「学校教育」について、「こうしようね~!」って打ち出した内容が、教育業界にえらい波紋を呼んでるようです。その震源地的な言葉が「社会に開かれた教育課程」。

 

教育課程を通して、これからの時代に求められる教育を実現していくためには、よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な学習内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを教育課程において明確にしながら、社会との連携及び協働によりその実現を図っていくという、社会に開かれた教育課程の実現が重要となる。(平成29年・学習指導要領2Pより)

 

これまで学校教育って、というか「先生たち」って、大学を卒業してそのまま教員になった、というパターンの方が大多数を占めるから「社会に開かれた」と言われても、「社会ってナニ?」なわけです。悪く言うと、とてもとても閉鎖的な空間に、閉鎖的な人間関係で、閉鎖的な業界でもあり、まとめたら閉鎖的な環境の職業なんです。そう、環境だから先生たちは一切悪くない。

 

だから「社会に開かれた教育課程」だ!って言われても、「今までとどうやり方変えたらいいのさ」は文科省は言ってくれないわけです。まぁ、一応細かくは打ち出してるけど、よく読みこんでも抽象的な表現。(結局、文科省の役人の方々も開かれてない証拠なのかも)

 

人生二毛作・三毛作は当たり前の時代の学校教育って?

今回の全教員研修で、登場した4人のうち、松田さん・古賀さん・宮本さんって、まだまだ教員という視点から見ても「想像できる」人種。僕は、複業フリーランスにNPOの代表もして、中学生から高齢者までがごちゃ混ぜになってる福岡テンジン大学という、「まちの学び場」をやってるという、価値観のモノサシでは測れそうにない人種なんじゃないかと。

 

なので産官学民の「民代表」として、福岡テンジン大学でのボランティアスタッフたちが「自分だったら一番に学びたいと思う授業を企画する」ということから、実社会に繋がる学びを感じてもらうような話とワークショップを提供しました。それに加えて、僕自身の転職も副業も独立もしてきた「働き方」、いわゆるキャリアの話は「学校教育の中ではほぼ存在しない」ので、それもやんわり伝えたくて、「教育に携わっている身としては、学校の先生たちと対局のところにいる」というプレゼン内容にしました。

 

人生100年時代、そして定年がもう70歳はほぼ確定になってきて、死ぬまで現役が推奨されていく流れは、人生二毛作どころか、三毛作も四毛作も当たり前だと思うのです。そんな「社会を生き抜く力を学ぶ機会」は、幼稚園から大学までほとんど用意されてないと言ってもいいんじゃないでしょうか。

 

すでに現在、九州産業大学で受け持ってる講義では15回かけて「それ」を感じ、生き抜く力を養うようなカリキュラムにしてるんですけどね。(入門なので基礎編ですが)

 

じゃあ学校ができる「社会に開かれた教育課程」って?

本日は全教員の約140名の方々が、4名の登壇者のパネルディスカッションを聞いて、それぞれ4つの教室に分かれて分科会。最後にまた戻ってきて、教員同士4人1組で「授業プランを考える」を行いました。これを企画したのが、まさに今回声をかけてくださった先生なんですが、この先生はすでに社会に開かれてる!(ご自身のネットワークで僕含めたゲストを呼んだわけですから)。

 

先生たちも、それぞれ産官学民に分かれてアイデアを出しまくって「授業プラン」を考えたので、短い時間だったのに、どんどんドライブ入って前向きにワークしてました。最後は約30の社会に開かれた(であろう)「授業プラン」が出来上がってました!

 

この先生たち、僕の分科会で起きた現象が「学校教育を社会に開かせてない理由」とも言えるなぁって思ったことがあります。

 

最初、「学校×〇〇」で〇〇を自由に考えてもらおう!と、キーワードを4名の登壇者の話から拾ってもらうよう促しても・・・全然出てこない!いろいろ様子見てると、「学校×」という発想の仕方が、自分たちの普段の職場という境界線から発想が抜け出せてないことに気づきました。

 

そこで!「学校×をやめましょう。その代わり、“自分が興味のあること”“社会の中でほっとけないこと”のキーワードを出してください」と言うと、どんどん出る出る。結局、それらのキーワードを「学校×〇〇」とするだけで、「社会に開かれた教育」になります。

 

教師・教員って、学校という境界線が明確な空間で、さらに教科があり教科書がありガイドラインみたいなものがあり、いわゆる「越境する機会」がほとんどないので、「自分でカラを破る」経験値が圧倒的に不足しているようです。それが「社会に開かれた教育課程」の実現のハードルに確実になる。(だから年配の教員は、今回の新学習指導要領にえらく反発してるイメージがあります)

 

最後に、「学校×〇〇」の〇〇が、先生自身の“自分が興味のあること”“社会の中でほっとけないこと”で、なんで「社会に開かれた教育」になるかって疑問に思った人もいるかも?

 

社会に開かれた“学び”って身近に転がってる!

今回実際に出てきたキーワードを取り上げると、例えば「車」。先生が自身の趣味である「車の授業」を開講したとします。それに「興味のある生徒だけ」が参加すればいい。「車」の切り口次第で、いかようにも学びは広がります。構造的な話なら数学や物理、デザインなら芸術、外国車なら英語や社会。

 

例えば「夜景」。夜景も切り口次第です。観光なら数学(統計学)や社会、外国語のガイドやサインもあるし英語も。夜景の光の質を見ていけば、その街の産業構造や地形にもつながる。

 

そう、実は先生たちが「自分たちがより学びたい!」と思う私的なことを、生徒たちと一緒に学ぶ機会を学校教育の中で「ほんの少し」設けるだけでいい。

 

もし、先生たちが複業していたら、アイデアは掛け算で広がり、より精度の高い「学びの場」もつくることができるでしょう。

 

ということで、教員の方々が「授業プラン」を考えているとき、僕も頭に血が上ったというか、熱気に当てられてアイデアが次々に繋がってしまい「授業プラン」を考えました。そのプランは、今回の学校にも託しましたが、タイトルは「先生フェス~誰もが先生、誰もが生徒~」。このお話はまた長くなるので、別の機会に・・・。

 

これからの教育がどのように変わるのか?経産省が取り組んでいる「未来の教室」事業にも注目ですね。



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